深谷教会聖霊降臨節第9主日礼拝2024年7月14日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:使徒行伝27章33~44節
説教:「命辛々助かった!」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-534
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「命辛々助かった!」 使徒行伝27:33~44 佐藤嘉哉牧師
わたしは16歳の頃に北欧のデンマークに留学した経験があります。数ある国の中から何故デンマークに留学したいかというと、その国にはどのようなものがあり、どのような人が住んでいるのかと興味があったからです。デンマークに住んでいて驚いたことは、時間の過ごし方と食事への認識でした。デンマークは北欧のラテン系と言われるほど、明るく穏やかな性格の人が多く、時間にはそんなにこだわりがありません。バスが遅れることは平気でしたし、待ち合わせの約束時間に間に合う友人はいませんでした。集合時間にやっと動き出すというのは本当なのだと驚いたことを今でも思い出します。そう考えると、日本での5分前行動は世界的に見ても珍しい常識なのかもしれません。コンビニやスーパーマーケットも土日は休み。だから家の地下に大きな冷凍庫がある。土日はほとんどの人が休みで、家のことを朝から晩までする。逆に日本のことを伝えると、デンマークの友人は「じゃあいつ休んでいるの?」と質問されました。
食事に関しても日本との捉え方に違いがあると思います。デンマークでの食事はお腹を満たすだけでなく、交わりをメインにしています。一度座ったら、皆が食べ終わるまで基本的に立ち上がらない。ですから食べ始める時から料理はテーブルにあり、途中で冷めてしまってもおいしいものを出します。食事をすることで相手のことを知る。時にジョークを言い合うこともありますし、レストランでも本当に長い時間います。その分お金がかかるので、1年間住んでいる間に行ったのは2回だけでした。日本では低価格の代わりに回転率を上げるため、長く居座ることはありません。これだけでもおおきな違いであると思います。食事はお腹をいっぱいにするだけでなく、交わりを大切にしてその相手を深く知る。それが今日の聖書箇所にあるパウロの食事に通じるものがあると思います。
今日の聖書箇所使徒行伝27章33節から44節は27章の最後の場面です。パウロはローマ皇帝の裁判を受けるため、数人の囚人と共に舟に乗ってイタリアへと向かうこととなりました。その途中風が思うようにつかめず、予定より大幅な遅れが出て、航海するのに危険な季節になってしまいました。地中海沿岸は穏やかな気候という印象がありますが、実は冬になると大荒れの天気となり、航海も難しいほどになるそうで、ほとんどの船乗りは舟を出すことを躊躇するほどであったとのことです。パウロはそのことを指摘し、もしこのまま航海に出たら、おおくの損失が及ぶこととなる。かならず後悔することになる!と言いました。しかしタイミングが悪く南風が静かに吹いてきたので、パウロの忠告を無視して出向することになりました。案の定海が荒れたので、舟が沈没しないようにと積み荷を海に捨てたとのことです。わたしの忠告を無視しなければ、こんな損失を被ることはなかった!今は命すらも危ない。「だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなた方の中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜っている』。だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。われわれは、どこかの島に打ち上げられるに相違ない。」パウロはこのように船員と囚人とを励ましたとあります。しかしそうしてもなお状況は悪化する一方で、14日間も海に漂うこととなります。余談ですが、船の沈没を防ぐために積み荷を投げ捨てたことによる損害は、荷主と船主が折半して負担するという制度があるそうです。この制度はギリシャから始まった商慣習であり、これが「損害保険」の始まりとされています。「東京海上日動」など保険会社に「海上」の名称が多いのもここから来ているそうです。
そして今日の聖書箇所では命辛々な船員たち、囚人たちにパウロは食事を勧める場面へと移ります。舟には276人もの人が乗っていたのですから、食料の量もそうとうな物であったはずです。舟が沈没しないようにするには一番量のあるものから先に落としていくことになりますから、食事も次第に制限が掛けられていくでしょう。実際34節では「あなたがたが食事もせずに、見張りを続けてから、何も食べないで、きょうが十四日目に当たる。」と言っています。14日間も何も食べないなんて耐えられるはずがありません。そんな極限状態の中をこの舟に乗る人々は過ごしていたのです。パウロはその極限状態である人々に「食事をしよう。それがあなたがたを救うことになる。」と言って食事を勧めます。何をいまさらと思う人もいたでしょう。しかし命が助かるなら藁にもすがりたい気持ちであるはずですから、割かれたパンを食べました。そのことでみんなの者は、じゅうぶんの食事をした、とあります。これは単に腹を満たす行為ではありません。同じ命が脅かされている状況のすべての人が食事に与ることで、互いを知ることができたのです。それもこのパウロのパン割きによる食事は聖餐であります。みんなの前で神に感謝し、それを割いて食べ始めたのですから、これは神の祝福による食事であるのです。自分たちの命が助かると言っている神が、祝福してくださる。その信仰を前に食事をする。ただ腹が満たされて元気になったのではありません。神の祝福を受けて元気づいて食事をしました。乗組員は囚人の監視役でもありますから、同じ立場にあるわけではありません。しかし食事の時はみな等しく元気をもらっていたということは、交わりを持ち互いを知り合うこととなったのでしょう。実際その後にも舟は浅瀬に乗り上げてしまい大破するという最大の危機に見舞われます。42節には、「兵卒たちは、囚人らが泳いで逃げるおそれがあるので、殺してしまおうと図った」とあります。立場としてはそうせざるを得ないでしょう。しかし百卒長は「パウロを救いたい」という思いから、囚人全員を殺すことをせず陸へ逃げろと言ったのです。もしパウロが勧めたパン割きによる食事をせず、この状況に陥ったならば囚人は殺されていたでしょうし、乗組員も多数の死者が出ていたのではないでしょうか。その全員が命辛々助かったのも、神が計画されていたことであったのです。
この航海はパウロへの試練でもあったはずです。自分がこれからどのような裁判を受けるのかはわからず、もしかしたら命を奪われることになるかもしれないという恐怖の中の航海であったはずです。そのパウロが「元気を出しなさい。わたしたちは救われると神は言っている。」と周りの人々を励ましたのですから、彼の信仰は本当に強いものなのだと思います。それと同時にわたしたちはその信仰を受け継いでいるのです。これまでの歩みの中で何度も試練に出会ってきました。その中には命が脅かされることもあったでしょう。しかし命辛々助かったできごとも、すべて神の計画の内にあるのです。それを乗り越える力、元気を日々与えられています。今日の聖書の箇所のように、食事を通してもそうです。神との繋がりが私たちの命をつなぎとめてくださっています。日々命がつながれていることに感謝しながら歩んでいきましょう。